■いったいおとといはどうしたことか、一週間以上放置していたブログなのに1日のアクセス数が18000を超えていました。こ、更新せねば。
■まず業務連絡というか、お知らせです。「危ない中国 点撃!」献本をお約束しましたブログ読者の方から送付先住所、とどきました。コメントくださったのは25人だったのですが、イザ編集部の問い合わせにお答えくださったのは16人でした。サイン本4冊、というリクエストの方もいらっしゃったのですが、いちおう今回は1冊ずつお送りいたします。福島が〝自腹〝で買った本(おそらくはいる印税より出る方が多い)も、無事北京につきました。これから、じっくり発送作業します。勤務時間外(っていつだ?)にやるつもりなので、きなが~にお待ちください。
■で、今エントリーでは中国の民主について考えてみよう、と思ったのですが、そのネタの一部を本紙のオピニオン欄の「日曜日に書く」(11日)に書いてしまったので、後回し。さきに、日曜のオピニオン欄、よんでやってください。というわけで今回は、ひまねたです。
■中国文化統制の悲劇
流行歌はこうやって葬られた
中国が文化大国を名乗るのは半世紀早いと思いました
■産経新聞の連載で「音楽の政治学」というシリーズがある。「食の政治学」に続く連載で世界の音楽と政治の関係を描くコラムなのだが、私もときどき書いている。で、先日、中国の最初の流行歌(歌謡曲)、黎錦暉(1891~1967)作曲・作詞の「毛毛雨」(1927年)をとりあげた。中国で80年前にすでにオリジナルポップスが誕生していたのだ。
こんな歌。
http://www.maidee.com/program/511957(原曲)
http://www.999yy.com/play.aspx?song_id=48780&line=2(中台ドラマ「情深深雨濛濛」の挿入歌に使われたやつ)
《毛毛雨》
毛毛雨
吹个不停
哎哟哟
小亲亲不要你的金
小亲亲不要你的银
奴奴呀只要你的心
哎哟哟
毛毛雨
微微风
雨打风吹行路难
行路难
年轻的姐荷花刚展办
莫等花残日落山
哎哟哟
打湿了尘埃
吹冷了情怀
やがて雨と風はやんであなたが来るの
■この黎錦暉という音楽家、私も最近まであまり知らなかったのだが、すごい人物である。しかし、この人の歌も功績も中国では2001年まで、ほとんど知られていなかった。
私も初めて聴いたのは 趙薇主演の中台ドラマ「情深深雨濛々」(2001年)の挿入歌としてだ。
■なぜなら黎錦暉がつくる「新型愛情歌」、つまりポップス、流行歌は「ポルノ(黄色歌曲)」としてずっと政治的に迫害されつづけていたからだ。中国にはオリジナルのポップスを生み出す才能も素地も80年前にめばえていたのに、それを自ら踏みにじってきた。で、今になって、中国の若ものがJ-ポップばっかり聞いている状況に、やれ文化侵略だ、中国のソフトパワーがたりないなどと焦っているのだから、笑えるというか、泣けるというか。
■黎錦暉の物語は100行の新聞原稿では書ききれなかったので、ここで改めて紹介したい。ちょっと新聞原稿と重複もあるがお許しください。
息子の黎沢寧氏提供(他2枚も)
■黎は1891年、湖南省湘潭の有産階級家庭の8兄弟の次男として生まれた。高校しか出ていないが、古琴をたしなみ地元の民間伝統劇音楽などにも精通していた。1916年に知人のつてで北京で新聞記者として就職。当時盛り上がりはじめた新音楽運動と出会い、著名教育家で当時、北京大学学長だった蔡元培らが主宰する北京大学音楽研究会の聴講生となる。これがきかっけで作曲家の道を歩み出した。ちなみに蔡元培は、辛亥革命で成立した臨時政府の初代教育長で、民国時代、西洋音楽の受容および教育の近代化に貢献した人物。彼の薫陶を受けた音楽家・蕭友梅とともに後に、上海音楽学院(1927年)を設立したことでも知られる。
■当時、中国は西洋文化のシャワーを浴びながらもそれを消化できずにおり、現代音楽は外国の輸入ものばかりだった。たとえば、小学生たちは日本の国歌の旋律で「孔子歌」などを歌っていたそうだ。黎錦暉は当時「国語運動」を推進していた長兄の言語学者・黎錦煕の影響も受け、中国語によるオリジナルの歌謡を創りたいと考えていた。蔡はそんな黎に、まず童謡を作ることを薦めたという。ちなみ黎家の8兄弟はいずれも各界で業績を残しており、黎氏8駿と呼ばれている。
■国民政府中華書局の職を得て上海に来た黎は、1921年、最初の童謡歌劇「すずめと子供」を創作。1927年まで12の童謡歌劇と24の児童歌曲を作曲・作詞した。彼が編集長をつとめる児童芸術雑誌「小朋友」は、おそらく中国初の子供向け芸術誌だろう。この雑誌を通じて発表しつづけた童謡は、当時、農村の子供たちまで愛唱していたそうだ。
■当時の上海は、外国政府が作る「租界」を通じて外国の文化・芸術が流入し、中国で最も音楽・芸術ビジネスが発展していた地域だった。童謡で名をなした黎は、この印税(原稿料)をつかってかねてからの夢を実現しようとする。それが本土オリジナルの音楽・ショービジネスの確立だった。かれは私財をつぎ込んで、1927年中国初の職業歌手・ダンサー養成学校「中華歌舞専門学校」を創設する。それまで中国ではダンサー、歌手は、「売芸」とよばれ、乞食に毛の生えたような扱いだった。学校創設は、その偏見を打ち破り、中国で本格的なプロ歌手、エンタテイナーを養成する拠点となることを目指した。
■学校は学費免除、全寮制で生活費も免除。外国の舞踊や歌唱の教師を招くのも、黎氏が自分の原稿料でまかなった。第1期の学生は約30人で、その中には黎の娘の黎明暉もいた。「毛毛雨」は、最初、この学校で学ぶ者のために作られた曲だ。
娘の明暉と一緒に 
■この学校創設について、黎錦暉の息子で現在、新疆ウイグル自治区ウルムチ市でピアノ教師をしている黎沢寧氏がメールインタビューでこう語っている。
「父は聡明で才知は群を抜いていました。彼がまじめに努力して取り組んだことは、音楽、舞踊、文学、出版などにおいてすべて歴史的足跡を残しました。ただひとつ欠点があるとすれば、善良すぎた。心が優しすぎた。私など父から怒鳴られたことがありませんでした。善良で優しすぎる人にビジネスは向きませんね。印税、原稿料は相当稼いだはずですが、一文も残りませんでした。全部人材育成につぎ込んでしまって。でも、お金は残りませんでしたが、多くのスター、才能を生み出しましたよ。周セン、聶耳、王人美、黎莉莉、白虹、黎錦光…」。黎莉莉は、黎錦暉の妹で当時の歌姫、黎錦光は弟で、後に名曲「夜来香」を作曲する音楽家だ。
■才能はあったが、ビジネスマンとしてはいまいちだった黎の学校はすぐに経営難と
なった。また蒋介石の北伐成功により、租界内で、「青天白日旗(国民党旗)」を掲げる学校の運営が困難になってきたこともあり、学校は「中華歌舞団」と名前を変えてショービジネス活動に専念、しかし、29年初め、巡回公演先のジャカルタで金がつきて解散となった。
■公演先のジャカルタから帰国する旅費をつくるため、黎はその巡回公演で歌った「毛毛雨」などの曲を「家庭愛情歌曲」としてレコード出版した。このレコードによって、中国最初の〝ポップス〝「毛毛雨」が一世風靡する大流行歌となる。このレコードには、当時「新型愛情歌曲」とよばれた「毛毛雨」のほか、シンガポールで書いた中国初のジャズ歌謡「特別快車」など、のちにテレサ・テンも歌った曲が含まれている。特に「毛毛雨」は、これまでの封建的呪縛から解き放たれた自由な女性の恋愛感情が歌い込まれており、老若男女の共感を呼んだ。繁華街のダンスホールやカフェだけでなく、石庫門がならぶ小さな路地からも、郊外の農家からもこの歌を口ずさむ声がながれ、まさしく「時代の歌」となった。彼の曲はレコードを出せばすべてメガヒット、上海の百代、勝利(ビクター)、麗歌などの大手レコード会社は当時、会社のロビーに黎の肖像画を飾っていたほどだという。
結構ハンサムだよね。
■中国ポップスの父、としての地位を確立する一方で、黎錦暉は中国音楽史においてもうひとつのエポックをつくる。「明月社」(1930年)の創設だ。中華歌舞団は経営難で解散してしまったが、レコードで大もうけをした黎は再び、その金を「人材育成」に使う。明月社は上海モダニズムを彩る王人美、周セン、黎莉莉(黎の妹)ら歌姫を輩出した。黎の曲を歌う歌姫たち、演奏家たちは当時、黎派と呼ばれ飛ぶ鳥を落とす勢いの人気ぶりだった。ちなみに、毛沢東の妻となる江青は、藍苹の芸名で明月社に入団しようとしたが、オーディションに落ちたというエピソードがある。江青がもし明月社に入っていたら、歴史も流行歌の運命も多少かわっていたかもしれない。
■黎の功績でもうひとつ忘れてはならないのが、上海ジャズの開祖としての影響力だ。シンガポールで帰国旅費捻出のために脳みそを絞って作曲した「特別快車」は中国初のジャズ歌謡だったが、その後の1933年から35年にかけて黎はジャズを真剣に研究、上海のジャズホール用のバンドを組織し、楽曲を作った。今でも上海外灘の和平飯店のジャズバーでは、オールドジャズマンが黎の名曲を演奏してくれる。
■しかし、抗日戦争の暗雲せまる1936年、中国はこれら流行歌を自ら葬りさる。
自由な人生観と愛にあふれたこの歌は、為政者から危険視された。庶民の心を瞬く間にとらえる黎の歌が日本軍に利用されることも恐れたという。さらに黎の圧倒的な存在感、才能に嫉妬したものたちが、海外音楽留学経験者の蕭友梅ら「学院派」音楽家らも、ここぞとばかりに黎の音楽をバッシングした。
■「黄色(ポルノ)歌曲」「軟弱者の歌」…。声を荒げて黎の音楽をけなす者のなかに、後に中国国歌の作曲者として名を残す聶耳らもいた。聶耳は実は黎錦暉が創設した明月社のバイオリニストでもあった。雲南省の片田舎から出てきて五線譜も読めなかった青年・聶耳を音楽の道に導いたのは黎だった。「聶耳は、耳がいい」と黎はいったという。作曲の前に、正しい標準語を身につけよ、という、黎の教えに従って、ポケットにはいつも標準語の声調が書かれた単語帳をもって、閑さえあればそらんじていたという。だが、そんな師弟の情も時代の風雨のまえに容赦なくかき消されたのである。共産党員として左翼思想に傾倒する聶と、黎の自由主義的な社会観、人生観は完全に対立し、聶の黎に対する攻撃は解放後も続く。しかし、聶耳が後に作曲した国歌「義勇行進曲」などには黎錦暉の音楽的影響が色濃く感じとれる、という研究者は少なくない。
■抗日戦争が始まる直前に、黎は友人の作家・田漢(国歌の作詞でも有名)の忠告に従い、上海を離れいったん湖南のふるさとに帰る。その後地方で抗日歌曲なども作るが「ポルノ作曲家」のレッテルはとれず、国内の文化・出版機関に対しては黎錦暉の作品は使ってはならないと内部通達が出された。解放後、政治的迫害はさらにひどくなり、文化大革命の始まる1967年、上海の片隅で暖房をつけることも許されない中、寒さにふるえながら心臓病でこの世を去った。妻の梁恵方は「文革が本格的に始まる前の死でよかった。文革時期に生きていれば、もっと激しくいじめ抜かれていただろう」と、嘆息とも安堵ともつかぬ様子でに地元メディアに当時を振り返って語っている。
■文化大革命が終了するまで、中国では流行歌が完全に封印されていた。約50年の間、中国ではポップスは存在しないことになっていたため、文革終了後、改革開放がかかげられ、台湾の歌姫テレサ・テンの歌声が大陸に届いたとき、中国人たちは初めてポップスに触れたような感激を味わい、魅了された。しかし、彼女が歌い、大ヒットとなった「何日君再来」の元曲を作ったのは、実は黎錦暉だったといわれている。作曲家・劉雪庵が黎錦暉が個人音楽会で披露した別れの歌「永別小弟弟」にインスピレーションをうけ、タンゴ舞曲風に作曲したというエピソードを、劉雪庵の家族がメディアに明らかにしている。(注:新聞原稿では、何日君再来の作曲を黎錦暉と書いてしまいましたが、このあたりは一応論争点というか謎が多いらしいです。黎沢寧氏と電話で話したときには『何日君再来』が黎錦暉の作品であるとの前提で話をされていたので、つい誤解を呼ぶ書き方をしてしまったことをお詫びします)
■息子の黎沢寧氏は訴える。「『毛毛雨』は中国で最初の流行歌だが、中国音楽史上で最も早期のポルノ歌曲といわれ、解放後も黎錦暉はポルノ歌曲の開祖と言われ続けた。80年代になっても、中央宣伝部は『毛毛雨』をポルノ歌曲に指定し、『辞海』(百科事典)には不健康な歌曲、と説明された…」「しかし、この曲のどこが不健康なのか。この曲は五四運動の影響を受け、封建的思想の呪縛から覚醒した新しい女性の、純粋な恋愛の理想を歌ったものです。加えて新しく優美な旋律が、人々の心をとらえました。新しい時代を問う曲として、時代をリードする歌として、世に示され、受け入れられたのです。歴史を振り返ると感慨が胸にせまります。封建的歴史、極端な政治、人の心の弱さ、運命のいたずら…。歴史は本当に冗談がすきです。笑うしかありません…」
■黎錦暉が「中国流行歌の父」として再評価されたのはその生誕110周年の2001年。ときの副首相・李嵐清が指示だった。当局から迫害された「旧上海三大文妖」と呼ばれた3大文化人、①洋画家の劉海粟(初めてヌードモデルを使って絵を描いた)、②性史学者の張競生(中国最初の性学者であり人口抑制政策の提言者)、③黎錦暉(中国ポップスの父、〝ポルノ作曲家〝)の中で、最も遅い名誉回復だった。
■この歌の誕生80周年で黎の死後40周年の今年、彼の功績はメディアを通じて改めて喧伝されている。名曲が再び日の目を見たことは喜ばしきことだが、この背景に外来文化の〝侵略〟に対抗する「ソフトパワー」創造を柱とする今の中国文化産業政策振興の政治宣伝があるように感じるのは、私の考えすぎだろうか。
■再び、息子の黎沢寧氏の言葉。「私の個人的な感想をいえば、名誉回復なんて何の意味もありません」という。「父は自分の作曲が災いをもたらしたなどと思っていませんでした。ちょっと圧力を受け(家族や友人を守らねばといったことも含め)、人から悪口を言われたにすぎない。自分は犬が吹き出す血に濡れただけだと、自分で言っていました」。「父にとっては、名誉回復なんて意味ないんです。なぜなら、人として、とても善良で、父を攻撃した人ですら、父の具体的な悪い部分は言えないくらいでしたから。それに、父は、人は死んだら灰になるだけ、死んだら世の中のことはすべて関係なくなる、というのが口癖でしたし」。
■歌は時代を創る。人の心をとらえ、その感情を解き放つ。他国の文化や思想を融合させ、聴く者を新しい価値観に目覚めさせることだってある。だから政治や国家のゆくえを左右することもある。中国の為政者はそのことを誰より深く知っている。だから歌を恐れ、迫害し、あるいはコントロールして利用しようとしてきたのだ。
■私は、文化は政治と無関係であるべきだ、などと綺麗ごとは言いうつもりはない。芸術、特に音楽の影響力とはそれほど強く大きい。だけれど、歌や音楽を恐れて、どうして独創的な芸術をはぐくむことができようか。中国は最近やたら、文明大国、文化大国と呼ばれたがっていて、故宮の近くに国家予算をつぎ込んで贅沢な国家大劇院を完成させたりしたが、結局、そのこけら落としに上演できそうな中国オリジナル芸術、といえば、革命劇(洋板戯)くらいしかないのだ。洋板戯もそれなりにおもしろいのだが、近代以降に中国が作り出した芸術と呼ぶものの、なんと薄っぺらいことか
■中国は、名誉回復してやったからいいだろ、みたいな偉そうな態度ではなく、かくも音楽創造に人生を捧げた天才を迫害し続けた歴史を真摯に悔いて、今現在行っているような文化統制をやっている限り、文化・芸術大国を名乗ろうなんて、おこがましいのだ、ということを分かってほしいものだ、とつくづくと思ってこのエントリーを書いた。

ウワサの国家大劇院
宇宙人の要塞とか、ピータンとか呼ばれている。
こけら落としが、江青の8つの洋板戯のひとつ、紅色娘子軍ってどうよ??


by sylvana
ただいま~、本を二冊ばかり出…