■13日、世田谷区の区民会館ホールで、南京・史実を守る映画祭というのが催されていて、ちょうど時間もあったので、観にいった。1937年12月13日というのが、旧日本軍が南京市を陥落させた日、つまりいわゆる「南京メモリアルデー」である。
というわけで今回のエントリーは南京映画と歴史観についてである。
■南京映画を観て考えた
自虐史観は日本人的美意識?
■映画と映画の間に一水会最高顧問の鈴木邦夫(男?ちらしには夫という字で書かれていたけど)氏と「引き裂かれた記憶」を撮影した武田倫和監督をゲストにまねいたシンポジウムが行われた。
■へぇ~、右翼と左翼の討論があるのか、とシンポジウムに一番興味をひかれていったのだが、鈴木氏は普通の右翼ではなくて「進歩的右翼」(主催者いわく)だったので、期待したほどにはがちんこ対決というふうにならなかった。残念。右翼も左翼も表現の自由は認めなきゃいけないね、映画を見る前に批判するなんておかしいね、という当たり前のところで意見が一致してまるく終わってしまった。
■この映画祭は、いわゆる南京映画はどうして日本で上映されないのか、それは右翼が妨害するからだ、そういう表現の自由を奪う行為は許せない、そういう暴力的なやりかたでの歴史の改ざんに抵抗するために有志で上映会するぞ、という趣旨で催されている。
■産経新聞と週刊新潮が南京映画がどこそこで上映されるぞ、けしからんみたいな記事を書くと、それを見て右翼の人が妨害にいくそうで、週刊金曜日に上映予告が書かれたぐらいでは右翼の人は気がつかない、という鈴木氏の発言には苦笑いしてしまった。今回の映画祭は結構ひろく事前告知されていたので、開幕直前には右翼の人が来たそうだが、警察が警備しているのをみて帰ったそうだ。
■もっとも私は、商業映画館がこれら南京映画を上映しないのは、商業的に採算取れないからじゃないかなと思う。はっきりいって、
南京映画はいまひとつ出来がよくないものが多いのだ。今回上映された「南京」(ビル・グッテンタグ監督)「アイリス・チャン」(ビル・スパヒック、アン・ピック監督)「南京・引き裂かれた記憶」「チルドレン・オブ・ホァンシー」(ロジャー・スポティスウッド監督)の四本のうち、私が金を払って見るに値すると思うのは「南京・引き裂かれた記憶」の一本だけだと思う。
■「引き裂かれた記憶」はおそらく、これら作品のなかで一番素人くさいドキュメンタリーである。しかし、今回の上映作の中でゆいいつ当事者の片方である日本人が撮った作品でもある。作品自体は、旧日本軍兵士の証言と、南京で当時家族が殺されたり強姦された被害者の証言を、ただ何の工夫もなく撮影し交互に編集しただけでだが、はっきりいって、アイリス・チャンに似た人が主演する何ちゃってドキュメンタリー風カナダ映画「アイリス・チャン」よりも、よっぽど重く力があった。渋谷アップリンク(03・6825・5502)でまだ上映中らしいから、興味がある人はどうぞ。ただし、観たあと気分が落ち込むのは必至だ。
■思うに、1979年生まれの若い武田監督の制作動機が一番ピュアだからだろう。武田監督は、祖父が中国の戦線で戦った旧日本軍兵士で、「普段おとなしい人柄の祖父が酒をのむと暴れて『中国人の亡霊が襲ってくる』というようなことを叫んでいた」という。結局、その祖父は戦争体験を人に語ることなくこの世をさったが、武田さんはだからこそ、祖父と同様の経験を持つ人の話を聞きたいと思った。
■もともとドキュメンタリー映画をつくるという意識もせずに、ただ松岡環氏の証言者インタビューの映像記録を集めるつもりで撮り始めたらしい。あとで日本兵士側と中国人側の証言が偶然にも一致したものを取り上げて編集したようだ。若い女子学生を強姦したことについて「苦しいことも多かったが、いい思いもした」(セリフはうろ覚え)と懐かしむような顔で証言する旧日本軍兵士の表情も、へたな演出より強烈なインパクトを与えていた。この7人の旧日本軍兵士と6人の中国人被害者の証言一致という偶然性、そして証言者(特に旧日本軍兵士)の打ち解けてインタビューに答える表情の撮影に成功したのは、10年におよぶ旧日本軍兵士側250人以上、中国人被害者300人以上のインタビューという膨大な労力があるからだろう。そういう情熱に対しては、私は主義主張をこえて条件反射的にすごいと敬意を払ってしまう。
■さて、シンポでは言論・表現の自由は右翼左翼とも大事にせねばならない、という部分が大テーマであって、これにはまったく同意見だ。だが、鈴木氏が「日本はすばらしい国だといばるより、少々自虐的であった方がいいと思う」というような発言をしていたのは疑問が残った。本当は、ここの部分を第一テーマにしてほしかったな。歴史観は自虐的な方が、国益にかなっているのかどうか。
■世間ではしばしば、歴史の真実、という言葉を使うが、実は私はこの言葉はすごく都合がいいものだと思っている。私自身は、南京事件は幻だったというつもりはまったくない。虐殺はあっただろうと思っている。大きな根拠のひとつは、私自身が、大阪本社文化部記者だった1994年のゴールデンウィーク、南京陥落の日に現場にいた旧日本軍兵士を取材したことがあるからだ。いや取材というより偶然出会って話を聞いただけだ。
■私の父は、幼いころネエヤにお守りされていたおぼっちゃんで、そのネエヤは、父のおそらく初恋の人だった。戦争で生き別れになったそのネエヤの居所が偶然わかり、私は父の初恋の人みたさに、探偵ナイトスクープののりで、吉野の山奥の農家に嫁いだネエヤを訪ねていったのである。ところがネエヤ夫婦といろいろ話をしていると、ご主人が南京戦に工兵として加わった旧日本軍兵士であることがわかった。
■南京にいっとりました、という話をきいて、おもわず、こちらから南京で大虐殺があったのは本当ですか?と質問したとき、下関の捕虜に対する機銃掃射の話を聞いた。揚子江のふちに捕虜を追いやり機銃掃射で河に次々、撃ち落としたという。河の水は血で真っ赤になり、河岸から幅数メートルのところの水面は遺体でぎっしり埋めつくされていた。そのあと、その遺体の浮いた河の水をくんで、メシを炊いた。炊きあがって鍋のふたをあけると、メシ(たぶん雑穀)が銀シャリに変わっている。うぉお、銀シャリになってるぞ!と思って喜んで目を近づけてみると、それは全部ウジだった…。というような話をきいた。
■なんの罪悪感もないように、笑いながら、水路に泳いで逃げ込んだ「チャンコロ」の頭めがけて石を投げた話などをするので、そのうち、そばに座っていたネエヤが聞くに耐えないという顔をして、夫の膝を打った。そこで、南京の話は終わりになった。そのとき以来、私は旧日本軍が南京戦において捕虜の大量虐殺を行ったというのは事実だろうと思っている。
■一方、北京勤務時代に私は中国共産党の宣伝工作というものも、いろんな機会で見知った。南京事件の証言に使われている写真の多くがフェイク写真であるというのは、おそらくそうだろうと思う。実際、今も中央宣伝部の指導によるフェイク写真やフェイク報道フィルムらしきものは相当あり、いくつかはそれがフェイクであることを関係者に聞いたこともある。南京事件の犠牲者30万人という数字について中国人学者の中でも疑問を持っている人はいる。学者やナショナリストの中には、中国共産党が人民の犠牲を悼むより、南京事件を含む日中戦争の歴史を外交カードとしてしか考えていないことに憤りを感じている人もいる。
■陸川監督の最新の南京映画「南京!南京!」で冒頭部分に国民党軍の奮戦ぶりを描き、国民党軍も一応南京市民を守ろうとしたんだというエクスキューズの描写をあえて入れているが、国民党軍にはたして南京市民を守るという意識があったかどうかを論じるのは、中台関係が好転した今となってはタブーの話題だという。南京虐殺まぼろし派が言うように国民党軍兵士がわざと放火したり略奪しながら逃亡したという事実があるかどうかは知らないが、すくなくとも便衣兵という形で市民の中にもぐりこむ、つまり非戦闘員を盾にするという戦争ルール違反をやっていた。
■しかも南京の守備責任をまかされていた司令官の唐智生将軍が南京死守命令だけ出して、自分はすたこら先に逃げていたので、命令系統はずたずただったという。南京市に攻め込んできた日本軍は上海戦で徹底抗戦にあって冷静さを失っていたといわれる。兵站も整わないうちに追撃に追撃をかさねるという戦略的にありえない無茶な戦をして南京まできたのだから、南京を陥落させた瞬間一斉に軍規のたがが外れたという考え方もある。そう考えると、南京攻略戦というのは、日中ともにルールもへったくれもない戦争の在り方としては最低最悪の状況であったかもしれない。
■つまり、旧日本軍がハーグ陸戦条約といったいわゆる戦争のルールを逸脱する行為を行い、それは大量虐殺とよぶべきであったという意見も、「南京大虐殺」がある時点から中国共産党の政治宣伝、外交の道具として利用されるようになり、それにともない表現に虚構や誇大が加えられているという意見も、ともに歴史の真実の一面を示すものかもしれない。
■しかも、当時の中国における戦争の在り方というのは、日本軍に限らず国民党軍側も無茶苦茶で、1938年の黄河(花園口)決壊作戦のように日本軍の進軍を阻止するために堤防を決壊させて、村々を水没させ農民数十万人の犠牲を出すこともいとわなかった例もある。そういう状況で数万規模の虐殺は南京にかぎらず、けっこうあって、中国側も当初はとくに大事件という意識はなかったかもしれない。だから調査や記録がちゃんとできておらず、今に至るまで、事件のディティールで論争がおきている。だいたい捕虜の大量処刑があったのなら、その捕虜の名簿が国民党軍側資料にのこっているべきだろう。それがないって、すごいずさんさな軍隊だったんだな。中国人が靖国神社にいって、特攻隊の顔と名前と生没年がきっちり残されていることに、ある種の感動を覚えるというのも、わかる気がする。
■ちなみに河南省の一部の村では、大飢饉にもかかわらず容赦ない徴発をし農民を苦しめた国民党軍への怨念をくすぶらせ、旧日本軍に対してはむしろ農民を助けてくれた、食糧をわけてくれた、生まれて初めて食べたアメは日本兵がくれた、といったよい印象の証言があるそうだ。私が直接聞いたわけではないが、作家・劉振雲さんをインタビューしたとき、彼が現地でそういう証言を多く聞いてきたと話してくれた。
■歴史の真実というのは一つではない。勝者の歴史が一般に正史といわれるが敗者の歴史もひとつの表にはでない真実だろう。それとは別に個人個人の体験に基づく記憶の歴史がある。南京の大虐殺は日本人の本性が悪鬼畜生であったゆえに発生し、長崎・広島への原爆投下は早期戦争終結のために必要だった、とするのは勝者の歴史だろう。だが、それに異論を唱えたい敗者の歴史もひそかに存在する。個人の記憶の歴史も、ほんの一年のタイムラグ、揚子江河畔と黄河河畔という土地の差があるだけで、一方には旧日本軍の残虐非道を歴史の記憶として胸に刻み、一方には旧日本軍は水没する村から自分を救助してくれた命の恩人という記憶が残っている、というように多様だ。
■しかし、そういう多面的な歴史のどういう部分を国家レベルで強調するかは、もう歴史の真実うんぬんではなく、外交テクニックの問題として考えるべき部分が大きくなってくるだろう。建前では歴史の真実と言い続けるべきだとしても。
■日本人は謝っている人間に対して、それ以上強く言えない性分の人が多いせいか、どこかに謝ってしまえば許される、それ終わり、という感覚がある。反省することが美徳という感性は、反省して謝罪すれば過去を洗い流して新しい関係を始められるという思いがあるからではないだろうか。
■しかし、現実の交渉の多くにおいて、反省や謝罪はマイナスに働く。特に国の外交は、相手の弱みにつけこんで自分を有利にもっていくことに双方が力を尽くすのであり、その本質は硝煙のない戦争といわれるのだから、国家として謝罪するというのは戦争で負けるのと同等くらいに考えた方がいいんじゃないか。戦争も外交も逃げてもいいけど、負けたらこまる。反省は、次に矛先を交えるときに同じ失敗を繰り返さないために行うもので、相手に弱みを見せることとは違うはずだ。
■日本はかつて戦争にまけ、戦争責任者を処刑し、敗戦国という立場で勝者の歴史、勝者の論理に従ってきた。戦後60年以上たって、ようやく敗者の歴史も言い始めていいかな、という感じで「新しい歴史教科書」のような運動も起き始めたが、それはまだ主流ではない。日本人の多くはやはり鈴木氏のように「いばるより、少々自虐的な方がいい」という感覚だと思う。そういう感覚は、ある種の日本人の美意識として同感の部分もあるが、同時に日本人はまだ負けることに懲りていないのだ、とも思った。つまりあの戦争の戦後60年は日本人にとってさほどつらく厳しく屈辱的なものではなかったのだ。アメリカさまさまだね。
■もし、戦後統治を行ったのが旧ソ連か中国で、国民みなが長きにわたって辛酸を嘗めつくしていたら、自分たちがアジアを侵略した歴史より、原爆実験を国内の二つの都市で行われた記憶の歴史の方が強烈に残っているだろうし、自虐的反省より二度と戦争(外交)に負けるまいという思いの方が強かったのではないか。中国の外交姿勢にしばしば絶対負けてなるものかという気迫を感じるのは、中国自体が第二次大戦の勝者の記憶より、列強に侵略されもてあそばれた敗者としての屈辱の記憶の方が強いからだと思う。
■中国は、だからあらゆる方面で自国が国際社会で優位にたてるように戦略を考えている。日本で上映されることが決まった陸川監督の最新作「南京!南京!」なども一種の国際社会に対する情報戦だと、私は見ている。自国に有利な日中間の歴史認識を国際社会に広めるのは対日外交戦略としては大きいプラス作用が見込めるはずだ。
■私は自分が、南京攻略戦の現場にいた旧日本軍兵士の目撃証言を聞けばショックを受けるし、それを語る表情に罪悪感がみじんも浮かばねば嫌悪を感じる。被害者の子孫の中国人から私の祖母はこういう目にあったのだ、と聞けば、私自身が罪悪感を感じ、恥いってしまう。個人の記憶の歴史に対面したときに生じるもろもろの感情を素直に表現することは、人間として守られるべき自由であり誰に阻止されるものでもない。武田監督のドキュメンタリー映画に心を揺さぶられるのも、彼の撮った作品が個人的な動機から始まり、個人的な目線で歴史を問う姿勢を崩していないからだろう。でもこれが、国家の歴史観といった大仰な視点で描かれたものであったら私は受け入れられただろうか?
■もし国家として歴史を語るとしたら一部の証言をとりあげて、日本人は中国にこんな悪いことをしました、申し訳ありませんでした、という一言で自国の立場を言い表していいものか、と思う。もちろん面と向かって日本は悪くないやい!といえば、それは相手国の感情を害するし、日本は過去の歴史を反省していない、というお決まりの言葉で国際社会から非難される。それをさけつつ、うまく日本に有利な歴史観、あるいは外交的立ち位置というのを形成するのが文化発信という名の情報戦略だと思うが、どうだろう。
■アメリカはハリウッド映画などの文化発信、情報戦略で、アメリカの正義、自由、民主というイメージを国際社会に根付かせてきた。それを今、学ぼうとしているのが中国だ。中国映画に非常に詳しい水野衛子氏は近日発売のキネマ旬報「中華電影完全データブック」で「中国が次のハリウッドになる可能性」で言及しているそうだ。そういや、NHKもそんな特集してたね。これには反論も聞いているので、いつか改めてまとめよう。
■というわけで、国家としての歴史認識が「いばるより自虐的な方がいい」というのとは違うのではないかと思う。それは外交という戦争に戦わずして負けるようなものではないか。しかも、今後の「硝煙のない戦争」で戦勝国になるかもしれない国は、かつてのアメリカにように甘い統治をしてくれるとは限らない。彼らはかつて日本に侵略されレイプされたという記憶を持ちつづけているかもしれないのだから。
■南京映画が国内でも上映されればいいと、私が思うのは、たんなる表現の自由の問題だけでなく、これら映画を見れば、日中が国家として真の友人になれるという甘い幻想が吹っ飛ぶだろうという点だ。いろんな意味で、有意義な映画祭だった。


by sylvana
ただいま~、本を二冊ばかり出…